『赤毛のアン』という本に出会えたことに感謝したい。
シンプルですが、その想いがこの映画を作る原動力になっています。多くの『赤毛のアン』ファンがそうであるように、私も『赤毛のアン』に元気づけられた一人なのです。
プロデューサーであるユリ・ヨシムラ・ガニオンさんから長い間温めてきた企画への参加を求められ、私が加わったのが、2年ほど前でした。その当時の私は、読書好きであったものの『赤毛のアン』に関してはタイトルと大まかな内容以外の知識はなく、正直にいうと「子供の読み物」というイメージが強く、読まず嫌いで一度も手にしたことがなかったのです。
しかし村岡花子訳の『赤毛のアン』を手にしたとき、魔法のように引き込まれ、笑い、泣き、一晩で一気に読み終えてしまいました。そしてそれからアン・シリーズ10巻をまるで童心に返ったかのように夢中で読み耽りました。そして、不思議に思ったものです。100年前に、しかも日本から遠くはなれた異文化の国カナダで書かれたストーリーなのに、なんでこんなに私の心をがっちりと掴んでしまったのだろう?
それはもちろん、原作者モンゴメリの描いたアンの物語が普遍的で、いまだに色あせることない名作であることの証明ですが、私自身2006年当時、女性として仕事や恋愛について、どう生きるかとモヤモヤと悩んでいた答えが、アン・シリーズには詰まっていたのです。「なんでこの本をもっと早く読まなかったのか」と自分を責めたのと同時に「いや、きっと今、私がこのタイミングで『赤毛のアン』を手にしたことが奇跡的なことなんだ」と思いました。
名作『赤毛のアン』に関する映画という、高いハードルだったのですが、それを翻訳された村岡花子女史とカナダ人の友人との実話や、モンゴメリの生きた時代背景、またアンシリーズから発散されるエネルギーを分析していき、そして何より自分自身の人生を振り返ることにより、自然と伝えたいことが見えてきました。
便利で手軽なものがあふれ、どんどん人の心から想像する力を奪っています。いい本・いい映画を観ることで養う「想像力」は「思いやり」の心を育てる一番の情操教育だと信じています。そして、それが今の日本に、一番必要なのではないかという強い想いがあります。
暗いニュースが溢れる世の中ですが、時代と時代をつなぐコミニュケーションツールとしての「本」、そして本がつなぐ出会いや、「想いを伝える」ための産物である文芸作品、インターネットなどの技術を創り出す、人間の理性・創造性など最良の部分を信じてみよう、という気持ちを込めて本作は出来ました。
『アンを探して』を通じて、少しでも『赤毛のアン』の根底に流れている人間愛とユーモアを感じて欲しい。そして一人でも多くの人が、この映画を観て、「人間っていいな」と感じてもらえると幸せです。
宮平貴子
資料